医療MaaS 「医師の乗らない移動診療車」が挑む地域医療問題 | 長野県伊那市実証事業 現地取材

医療MaaS 「医師の乗らない移動診療車」が挑む地域医療問題 | 長野県伊那市実証事業 現地取材

(2020年3月10日掲載)

  • 長野県伊那市は、MONET Technologies、フィリップス・ジャパンと協業し、モバイルクリニック実証事業を開始した。
  • モバイルクリニック実証事業とは、「医療サービスを必要な人々の元へ届ける」という考えのもと設計された、「医師の乗らない移動診療車」を活用した取り組み。
  • モバイルクリニック実証事業をきっかけに、地域医療を担う医師、薬剤師、介護士が情報を共有するプラットフォームが生まれることで、包括的なヘルスケアが実現する。

長野県の南部に位置する自然共生都市、伊那市。伊那市では、日本の地方都市が抱える医療課題をMaaS(Mobility as a Service)によって解決するべく、モバイルクリニック実証事業を推進している。

モバイルクリニック実証事業とは、伊那市がMONET Technologies、フィリップス・ジャパンとの協業で行うヘルスケアモビリティの運用事業。医療機器を搭載した移動診療車「INAヘルスモビリティ」を活用し、同地域での医師不足などの課題を解決していくという。

伊那市の白鳥孝市長は「医療MaaSが過疎地域の問題を解消する」と期待を寄せている。伊那市長、医療関係者、事業の担当者と各方面への取材からモバイルクリニック実証事業の概要に迫る。

伊那市が医療のICT化を推進する理由

過疎化が進行する地方都市において、医師不足は大きな課題だ。日本地域医療情報システムの発表するデータによると、人口10万人あたりの医師の人員数は、全国平均が237.28名なのに比べ、長野県上伊那医療圏では151.92名。県内の大学で学んでも都市部の病院に就職するケースが多く、伊那市に戻ってくる医師は多くないという。

出所:「地域医療情報システム」

また、伊那市では平地だけでなく山間地域にも多くの患者が住んでいるため、往診にあたっての移動コストの問題も深刻だ。モバイルクリニック実証事業のパートナーとして医療業務提携を結ぶ神山内科医院の神山育男副院長は次のように指摘する。

「伊那市は全国平均よりも高齢化率が高い地域。開業医自身も、例にもれず高齢化の憂き目にあっています。大きな病院はあるのですが、往診の担い手がおらず、山間地域の患者さんは取り残されてしまっているのです。弊院でも現在10名以上の往診患者がいますが、医院の運営と並行して行うため、人手が足りていません」(神山育男氏)

医師の高齢化や医師不足が、伊那市に限らず日本の地方都市に共通する課題であることは想像に難くない。日本でも例にない医療MaaSの実証事業に取り組む意義について、伊那市長の白鳥孝氏は「日本の問題を先取りして解決していくこと」と話す。

「日本の地方都市はさまざまな課題を抱えています。過疎、少子高齢化、それに伴う医師不足。伊那市ではこれらをテクノロジーの力によって解決しようと取り組んでいます。このモバイルクリニック実証事業が実用化されれば、医師が遠隔地から診察を行うことが可能になり、日本の各地方の問題を解消していくことにつながっていくはずです」(白鳥孝氏)

モバイルクリニック実証事業とは?

伊那市が推進するモバイルクリニック実証事業は、「医療サービスを必要な人々の元へ届ける」という考えのもと設計された、「医師の乗らない移動診療車」を活用した取り組みだ。

あらかじめ患者が合意したオンライン診療の予約時間に合わせて、看護師がMONET Technologiesのアプリからオンライン診療用車両「INAヘルスモビリティ」の配車を予約。車両に看護師が同乗して患者の元まで移動する。患者が車内に乗り込み、遠隔地の医師がテレビ電話で患者を診察、看護師が医師の指示に従って診察の補助を行う。

オンライン診療用車両「INAヘルスモビリティ」。電動の昇降台が取り付けられ、車椅子の患者でも、そのまま車両内に乗り込むことができる。

車内には診察用のベッドや、テレビ電話を行うためのモニターやPCが用意されているほか、診察を補助するための医療機器もそろう。

「INAヘルスモビリティ」には心電図モニター、血糖値や血圧の測定器、脈拍数と動脈血液の酸素飽和度を測定するパルスオキシメーターなどの医療機器や、AED(自動体外式除細動器)が搭載されている。また、インターネットイニシアティブの情報共有クラウドシステム「IIJ電子@連絡帳サービス」を活用し、車内に設置したPCから患者の診察履歴を閲覧したり、訪問記録を入力・管理したりすることが可能だ。

モバイルクリニック実証事業を担当する伊那市役所企画部企画政策課の安江輝氏は、医療MaaS導入の目的を次のように語る。

「病院は外来、入院、在宅という3つの診療の選択肢を持っています。しかし、医師不足により、医師は積極的に往診を行うことは難しくなってしまいました。

オンライン診療によってそれを解決しようとしていましたが、往診の対象の多くは高齢者であり、ご自身でオンラインツールを使いこなせる方ばかりではありません。また、医師の高齢化が進んでいることを鑑みても、患者の自宅などにツールを設置して行うオンライン診療は現実的ではありませんでした。
MaaSによって車両が患者の元に行くことで、看護師のサポートのもと、医師は遠隔から効率的に診療を行うことができる。オンラインで完結するのではなく、車両が移動することで物理的に両者をつなぐことが望ましいと感じました」(安江輝氏)

前出の神山副院長もモバイルクリニック実証事業に大きな期待を寄せる。

「テレビ電話で患者を診ることができるのに加え、現場にいる看護師が客観的に意見をしてくれるので信憑性が高い情報を得られると思います。前例がないのでどこまで看護師による医療補助が可能かは実証事業の段階でチェックする必要がありますが、バイタルデータを測定し、問診や視診によって、診察を行うこともできます。
また、多くの医師が参加することで、情報共有のプラットフォームを作り上げていくことも可能です。緊急時に私が対応できない場合にも、他の医師に任せることができる。モバイルクリニック実証事業が軌道に乗れば、業務効率化による医療コストの削減、医師不足の解消ばかりではなく、患者にとっても安心なライフラインを作り上げることができるはずです」(神山育男氏)

多くの自治体と連携するMONET Technologies初の医療MaaS

安江氏と同じく、伊那市役所でモバイルクリニック実証事業を担っているのが、企画部企画政策課の池田佳幸氏だ。同氏は一昨年7月より「地域おこし企業人(※)」として、ソフトバンクから出向し、伊那市の内側から事業作りに取り組んでいる。

※地域おこし企業人 … 総務省が行う地域創生支援事業。地方公共団体が、三大都市圏に所在する民間企業などの社員を一定期間受け入れ、そのノウハウや知見を生かし、 地域独自の魅力や価値の向上などにつながる業務に従事してもらうプログラム。

「私のミッションはモバイルクリニック事業に限らず、ソフトバンクグループ全体が持つ資産を活用し、伊那市のICT化に貢献することです。情報やサービス、人脈、知見に至るまで必要なものを提供し、協力企業とのコネクション作りや技術的な提携のサポートを行っています。
ソフトバンクが出資しているMONET Technologiesは、MaaS事業に取り組んでいます。今回のモバイルクリニック事業の企画にあたっては、移動に関する課題解決に向けた実証事業に対して助成を行う「トヨタ・モビリティ基金」の公募情報をMONET Technologiesから紹介していただきました。この取り組みを伊那市役所企画政策課に伝え、いろいろな方にご意見をいただきながら事業のアウトラインを作成して応募したところ、そのアイデアが採択され、モバイルクリニック実証事業として具体化されていく運びとなりました」(池田佳幸氏)

MONET Technologiesは、将来の自動運転車両の活用を見据えて、ヒトやモノの移動だけでなく、サービスの移動を実現させるために、自治体や企業と連携した取り組みを進めている。これまでに全国400以上の自治体と対話し、そのうち約40の自治体と連携した取り組みを進めているほか、企業間の連携を推進するために設立した「MONETコンソーシアム」には500以上の企業が加盟している(2020年2月時点)。

こうした取り組みの1つが伊那市との連携だ。地方が抱える中でも喫緊の課題である「医師不足」へのチャレンジとなる本実証事業が持つ意味は大きい。

「まずは神山内科医院のように協力いただける地域の医療関係者の皆さまと一緒に、土台となる仕組みをつくっていきます。徐々に協力いただける医院と利用患者数を増やしていき、2020年度には週に2~3日稼働できるようにしたいと思います。
本実証事業が医療MaaSのユースケースの1つとなることで、伊那市の取り組みが他の地域にも広がっていくことを期待しています」(池田佳幸氏)

モバイルクリニックの先にある、理想の医療プラットフォーム

伊那市は、モバイルクリニック実証事業の先に、さらなる展開を見据えている。「INAヘルスモビリティ」によるオンライン診療をフェーズ1として、フェーズ2では遠隔での服薬指導、そしてフェーズ3では医薬品をドローンで配送することを目指すという。

前出の安江氏は、これらの展開の鍵として、地域医療を担う医師、薬剤師、介護士が情報を共有できる「多職種連携システム」をあげる。

「モバイルクリニック実証事業と薬剤や介護の領域は、別物のようでいて、実はつながっています。介護士の方々が持つ日ごろの健康状態の情報や、薬剤師の持つ『お薬手帳』の情報を集約することで、医師が診療を行う際の資料として活用することもできます。
医療や薬剤、介護や福祉などの個人情報やプライバシーに配慮しながらデータ共有ができれば、予防医療の拡充にもつながります。「INAヘルスモビリティ」はそのハブとなるものです。
高齢化によって膨らむ医療費を減らしていくためには、いかに効率的に、低コストで医療サービスを提供するかを考えなくてはなりません。データを共有しながら地域で包括してヘルスケアに取り組むことで、健康にかかるコストを減らしていくことができるのです」(安江輝氏)

伊那市の取り組みを全国へ

伊那市における医療MaaSの取り組みは、日本のあらゆる自治体にとって大きなヒントとなる可能性を秘めている。白鳥市長はモバイルクリニック実証事業を伊那市だけでなく、日本各地の地域医療に展開していくべきだと話す。

「モバイルクリニックの取り組みは、実証事業で終わらせるのではなく、確実に実装していかなければならないものです。市民の皆さんが安心して暮らせる社会作りにつながっていかなければどんな取り組みも意味がありませんから。この事業を形にすることができれば、必ずや日本各地の課題解決につながっていくと信じています」

今回のモバイルクリニック実証事業がどのような成果をもたらし、どのように日本全国に広がっていくのか。伊那市の取り組みに期待したい。

後記

日本の地域医療が抱える諸問題を解決するソリューションとして、これまでもオンライン診療が頻繁にクローズアップされてきた。しかし、映像と音声という限定的な情報で診察しなければならない点、そもそもツールを利用するリテラシーが必要となる点など、まだ課題は残されている。

モバイルクリニック実証事業は、医療機器やツールが搭載された車両が患者の元に移動し、看護師の補助による診察も行えるため、これまでのオンライン診療ではカバーできていない領域を埋め、現在の地域医療の課題の特効薬となる可能性を秘めている。伊那市での実証事業の成果次第で、今後の地域医療における課題解決手段のスタンダードになっていくのかもしれない。

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