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モバイルインターネット革命20年「あのとき、現場では。」ー技術者たちは何と戦い、乗り越えたのか

2026年10月1日、携帯電話サービスのブランド名を「ソフトバンク」へ変更してから、20年という節目を迎えました。20年前、ソフトバンクはボーダフォン日本法人を買収し、携帯電話事業へ本格参入。2008年には日本での iPhone 独占販売がスタートし、爆発的なトラフィック増加に直面。その後も5Gの実用化、そして空からの通信へという出来事の中で、通信ネットワークは進化を続けてきました。

節目を迎えるいま、その最前線に立ち続けてきた技術者たちに話を聞きました。「つながる」ためにどう向き合い、何を乗り越えてきたのか。20年の歩みを当事者の言葉で振り返ります。

目次

VodafoneからSoftBankへ。iPhone 独占販売でのトラフィック急増との戦い

VodafoneからSoftBankへ。iPhone 独占販売でのトラフィック急増との戦い

2006年、ボーダフォン日本法人の買収によって携帯電話事業へ本格参入したソフトバンク。ネットワークへの投資を加速させる中、2008年には iPhone の独占販売が始まり、急増するデータ通信への対応という新たな課題に直面します。一方、当時は電波が届きやすい「プラチナバンド」を持たず、「つながりにくい」という声への対応も大きな課題でした。

増え続けるトラフィックをどうさばき、電波をどう届けるのか。基地局の倍増、ビッグデータを活用したエリア改善、プラチナバンドの割り当てなど、ネットワークを大きく変えていった当時の現場を、その最前線にいた4人の技術者が振り返ります。

野中孝浩(のなか・たかひろ)

ソフトバンク株式会社 技術統括 エリア建設本部 オペレーション統括部 担当部長

1994年、東京デジタルホン入社。2006年当時は技術企画部にてネットワーク中長期計画を担当。

柴田克彦(しばた・かつひこ)

ソフトバンク株式会社 技術統括 エリア建設本部 本部長

1994年東京デジタルホン入社。2006年のソフトバンク移行時は九州技術部の技術管理課長。同年末に本社へ異動し、エリア品質管理部でエリア企画・品質管理を担当。

仙波利晃(せんば・としあき)

ソフトバンク株式会社 技術統括 NWシステム開発本部 無線設計システム部 部長

1997年、東京テレメッセージ入社。2004年にソフトバンクBBへ転職し、ボーダフォン統合後はネットワーク品質分析を担当。

谷崎佑介(たにざき・ゆうすけ)

ソフトバンク株式会社 技術統括 デバイス技術本部 デバイス技術企画部 部長

2001年、Jフォン東日本入社。2006〜2007年頃に東京エリアの基地局設計部門から、本社エリア品質管理部へ異動してエリア企画・品質管理を担当。

「負け癖」から「勝ち癖」へ

2006年にソフトバンクが携帯電話事業へ本格参入する以前、携帯電話事業は、NTTドコモ、KDDI(au)、そしてボーダフォンの大手3社による寡占状態にありました。ブロードバンド事業「Yahoo! BB」で急成長していたソフトバンクは、かねて自らの手でモバイル市場に参入する準備を進め、2005年には実験局の免許を取得するところまでこぎ着けていました。しかし、全国展開する大手3社に単独で対抗するには、あまりに時間が足りませんでした。

転機となったのが、2006年10月に始まる「番号持ち運び制度(MNP)」。契約者が電話番号を変えずに事業者を乗り換えられるこの制度は、大手3社の中で唯一「プラチナバンド」と呼ばれる電波の届きやすい周波数帯を持たず、つながりにくさに苦しんでいたボーダフォンにとって、顧客の大量離脱のリスク、いわゆる “草刈り場” となることが懸念されていました。一方のソフトバンクにとっても、単独でMNPのタイミングに事業を開始するのは容易ではありません。両社の思惑が一致し、2006年3月、ソフトバンクは当時としては過去最大規模となる、2兆円近い金額でボーダフォン日本法人の買収を発表します。世界に驚きをもって迎えられたこの決断は、まさに「時間を買う」ための選択だったといえます。

買収後の現場は、それまでNTTドコモやKDDIの後塵を拝し続けてきたボーダフォンの社風から一変することになりました。

皆さんは、以前はボーダフォンやテレメッセージといった通信会社に在籍されていました。ソフトバンクになって驚いたことはありましたか?

野中 「一番驚いたのは、当時社長だった孫さんに最初に言われた言葉です。『お前たちは負け癖がついている。勝ち癖をつけろ。小さいことからでも良いからナンバーワンを取る癖をつけるんだ』と。ボーダフォン時代の我々は、ドコモやauに加入者数、ネットワーク品質、営業利益でも勝てず、万年3位で『仕方ない』とどこか諦めていました。それを真っ向から否定された。目からウロコでしたね。

投資の姿勢も大きく変わりました。ボーダフォンは投資を絞って最小限でサービスを提供する経営スタイルでしたが、ソフトバンクは『ネットワークを改善しなければお客さまの支持は得られない』という考えの下、設備投資を積極的に進めました。それには本当に感謝しています。一方で、期日を切られ、『いつまでに何万局作れ』と追い込まれる厳しさもありました。嬉しさが半分、責任の重さで精神的にきついのが半分、というのが正直なところです」

柴田 「私も同じ感覚でした。ボーダフォンは各国に通信事業者を持つグローバル通信グループで、日本もそのグループの一つという意識が強く、投資枠も世界規模で比較されるため、日本単体では思うようにネットワークを構築するための予算を確保することができませんでした。ソフトバンクになって、孫さんや当時CTOの宮川さんたちが自ら弱点を認め、そこに投資を集中させていく姿を見て、『やっと自分たちのやりたいことができる』と救われた思いがありました」

仙波 「私は2004年にソフトバンクに転職し、実験局の管理や基地局建設の企画検討などを担当していました。印象に残っているのは、ボーダフォンとの統合が決まった時の社内の説明会です。それまで『ソフトバンクが自前で事業者免許を取得する』という路線を検討していたメンバーがいて、その説明を聞いて涙を流していた人もいたように記憶してます。自分たちで立ち上げるという意気込みで動いていたプロジェクトが、一区切りつくことになったわけですから。

その後、私はデータ分析を担当する部署に移ると、そこでは通信事業者的な『規定路線どおりのジャッジ』とはまったく違う文化に驚かされました。孫さんや宮川さんは一つの判断に対するこだわりが桁違いで、結論が出るまで妥協しない。100パターンの分析をして、そのうち1つか2つが答えにつながり、残り99は『間違いを証明するための仕事』だったりする。そこまでして答えにたどり着こうとする執念には圧倒されました」

谷崎 「私はエリア設計のチームにいましたが、ボーダフォン時代は打てる基地局の数自体が少なく、『とにかく地図のメッシュを埋める』発想でした。ソフトバンクになってからは『お客さまが実際にいる場所を狙う』という投資の考え方に変わり、スピード感もまったく別物になりました。シミュレーションにかけて翌朝結果が出ればいい、という悠長なペースから、その日のうちに分析して翌朝には答えを出す、というスピードに。大変でしたが、面白かったですね」

「社長ミーティング」の日々

当時、特に厳しかったことは何でしょうか?

野中 「私にとって象徴的だったのは「社長ミーティング」です。ネットワークの投資計画や基地局倍増計画を議論するため、毎週、孫さんと直接議論する場がありました。ネットワークのテーマは、基地局の展開、データ分析、お客さまへの伝え方など多岐にわたり、とことん議論するんです。こちらも一週間かけて準備して臨みますが、そこで必ず新たな宿題が出る。『次はこういう資料を持ってこい』と言われれば、急いで戻って資料を作り直し、また次の議論に臨む。そんな日々が何年も続きました。

厳しい時間でしたが、社長自身がここまでネットワークを理解し、決算発表の場でも熱量を持って語ってくれることが、お客さまへの何よりのアピールになっていました。だからこそ、我々も応えなければという思いで臨んでいましたね」

iPhone というトラフィック10倍の衝撃と、「ホワイトプラン」という魔法

2007年、ソフトバンクは「ホワイトプラン」を打ち出します。そして翌2008年、日本での iPhone 独占販売がスタート。ネットワークの現場は、この2つの出来事にどう向き合ったのでしょうか。

この時期、印象に残っている出来事を教えてください。

野中 「まず『ホワイトプラン』です。iPhone 登場以前、携帯電話のトラフィックは音声中心で、夜間帯にピークが集中していました。ネットワークはこの最繁時間帯を基準に設計するため、それ以外の時間帯はガラガラ、つまり非効率な投資になっていました。ホワイトプランは、この昼間の通話を無料にすることで、夜に偏っていた需要を昼間へと分散させた。ネットワーク設計者からすると、需要そのものを動かしてしまう『魔法のプラン』でした。ピークが平準化されれば、必要な設備規模も小さくて済み、構築のスピードにも余裕が生まれます。当時、このトラフィックデータは最重要機密情報として、社内でも厳しく管理されていました。

もう一つが2008年の iPhone 発売です。当時ソフトバンクが使えた “武器” は2GHz帯と1.5GHz帯だけで、プラチナバンドはまだ手にしていませんでした。当初のiPhone のトラフィックは、従来のフィーチャーフォンの約10倍。これが日本で普及すれば、ネットワークはどうなるか。毎週のように孫さんへトラフィックの動向を報告していました。実際、新宿・渋谷・池袋・新橋・東京といった山手線の主要駅では、パケット通信がほぼ使えなくなる『パケ詰まり』が頻発しました。

でも、すぐに基地局は増やせません。そこでWi-Fiへのトラフィックオフロードや、屋内対策としてフェムトセルの導入など、あらゆる手段でしのぎました。『大道具・小道具』を総動員し、都心部のパケ詰まりをモグラたたきのように対応する日々でしたが、モバイル、Wi-Fi、フェムトの各チームが一体となって、iPhone で急増するトラフィックを吸収していきました」

2008年7月11日、iPhone 3G発売当日のソフトバンク表参道付近の様子

その後も、急増するトラフィックへの対応は続いたのでしょうか?

野中 「東日本大震災の後、国会議事堂周辺で行われていた集会の参加者から、『ソフトバンクの携帯がつながらない』という声が孫さんのTwitter(現X)に直接届いたことがありました。孫さんはすぐさま『やりましょう』とツイート。当時、毎週金曜日に行われていたデモまでに、1週間で対策を打つ必要がありました。

移動基地局車を出すにしても、都心の一等地で設置場所を確保するだけでも一苦労です。総務省への申請なども含め、通常なら1カ月必要なところを1週間で準備しました。更にネットワーク容量を確保するために力を発揮したのが、Wi-Fi機器を背負って現場に立つ『Wi-Fi忍者』のチームです。15〜20チームを国会議事堂周辺に展開し、汐留本社(当時)から『Wi-Fi忍者』の配置をリアルタイムに管理、トラフィックの偏りに応じて配置転換する。まさに品質を守るための『作戦指令室』のようでした。

孫さんの『やりましょう』は、現場にとって時に恐怖でもありましたが、結果としてこうした一つ一つの対応が、ソフトバンクへの信頼とファンを生んでいったのだと思います」

2010年頃、Twitter(現X)上でお客さまからの要望や質問に対し、「やりましょう」と返答して実行を約束していた

「つながらない」を変えろ。電波改善宣言とプラチナバンド

700~900MHz帯の「プラチナバンド」は、山や建物を回り込みやすく、屋内にも届きやすい、携帯電話に適した周波数帯です。しかし当時、大手3社の中でソフトバンクだけがこの帯域を持たず、「つながりにくさ」という大きな弱点を抱えていました。

そこでソフトバンクは、プラチナバンドの割り当てを待つことなく、2009年頃から基地局の整備を加速。2010〜2011年には、基地局数を6万局から12万局へ倍増させる「電波改善宣言」を打ち出しました。その判断を支えたのが、ビッグデータを駆使した「どこに基地局を置けば、より多くのお客さまの通信環境を改善できるか」という緻密な分析でした。

6万局を12万局へ。ビッグデータが導いた「どこに打つか」

電波改善宣言を初めて聞いた時、どう感じましたか。

柴田 「目的が『つながりやすさでナンバーワンになる』ことだったので、やるしかないと思っていました。プラチナバンド割り当てを待たず、今ある2GHz帯だけで倍増に踏み切るという孫社長(当時)宮川CTO(当時)の判断が下された時、むしろモチベーションは一気に加速しました。ネットワークチームとして、やはりナンバーワンになりたいという思いが強かったので」

「どこに基地局を打つか」は、どう決めていたのでしょうか?

柴田 「ここで力を発揮したのが、仙波さんたちが手がけていたビッグデータの先駆け的な分析です。日本地図を100メートル四方のメッシュに区切り、建物数や駐車場、道路の種類、そこにいる人の流動人数までを定量化する。お客さまからの改善要望や、電波の悪い場所に設置する『ホームアンテナ』の申し込みデータも組み合わせ、『ここに基地局を打てば何人が救われるか』を1件ずつ算出していきました。例えば5万局規模の計画であれば、優先順位が1番から5万番までつく。経営陣自らが地図とデータをひとつひとつ見ながら、『ここまでやろう』と判断していく。そんなプロセスでした」

仙波 「私が分析を担当する立場として心がけていたことは、何のために分析するのかを意識することでした。それは、ネットワークを良くしたいから、そして『なぜこのようなネットワーク品質になっているのか』を明らかにするためなんですよね。ですが実際の分析結果というのは、時に厳しい現実を突きつけるものです。極端に言えば、私たち分析チームはずっと仲間にダメ出しをする立場だったんです。煙たがられてもおかしくない役回りだと思います。でも、柴田さんをはじめ、野中さん、谷崎さんは、一度もそんな顔を見せませんでした。むしろ私たちの分析結果を前向きに受け止めて、次の一手にすぐつなげてくれる。だからこそ私たちも、包み隠さず率直に分析結果を提示することができたんだと思います。仲間を信じて、自分に任された役割を全うすれば、必ず力が何倍にもなってネットワーク品質改善につながっていくみたいな実感を、あの当時感じながら取り組んでいました」

谷崎 「柴田さんが経営会議で使う材料を、仙波さんと2人で作り込んでいました。基地局をどこに何局打てば、どれだけの場所が改善するか、その1枚1枚を、来週までにという短いスパンで作り続ける日々です。ミーティングが終わるたびに宿題が出て、その日のうちにメンバーで次の作戦を練る。それを2年ほど繰り返していました」

期日を守るために「全員で雪かき」

電波改善宣言で掲げた基地局の倍増は、お客さまへの約束でもあり、進捗も公表しながら、期日を守って進める必要がありました。基地局は、鉄塔や設備を建てた後、最後に無線機を組み込んで電波を出す、という流れで完成します。ところが、雪の多い地域では、冬に積雪で現場へ入れなくなり、この工程が止まってしまいます。工事が遅れれば、電波の改善を待つお客さまに届けるのも遅れてしまいます。

基地局の建設現場では、どのようなことがありましたか?

柴田 「工事の進捗は毎週報告していて、マイルストーンを守らなければいけません。ところが雪が降ると、雪国の現場は工事が止まってしまいます。最後に基地局へ無線機を組み込む工程があるのですが、雪で現場にたどり着けないんです。そこで、社員が何十人も集まって現地に雪かきに行く『雪きかきプロジェクト』を立ち上げました。現地でスコップを買い、作業を担当する施工会社の方が入る前日に、基地局の周りを全部雪かきしておくんです。そうすれば、次の日に技術者がすぐ作業に入って、電波を出せます。現地での雪かき作業は大変でしたが、みんなで盛り上がってやるのは、ソフトバンクらしいところかもしれません(笑)」

雪深い現場で基地局への道をつくる社員

念願のプラチナバンド割り当て

2012年7月、悲願だったプラチナバンド(900MHz帯)を開始しました。従来の2GHz帯に比べ電波の飛びが良く、屋内への浸透力も高いこの周波数は、現場にとってまさに「武器」でした。

プラチナバンドを割り当てを受けた時の気持ちを教えてください。

柴田 「これで勝負できる、これでナンバーワンになれると思いました」

谷崎 「エリアシミュレーターで見ると、その差は歴然でした。2.1GHz帯のエリア図と900MHz帯のエリア図を比べると、3倍、4倍という単位でエリアが広がる。それまで一つ一つ塗りつぶすように広げてきたエリアが、一撃で取れるようになったんです。実証実験では、近くに基地局を1つ立てるだけでショッピングセンター全体をカバーできるようなケースもありました。今まで持っていなかった『屋内への武器』を手に入れた感覚でしたね」

仙波 「お客さまからの声を集める仕組みも、この時期に整えていきました。すでに導入されていた『3Gエリア充実アンケート』を2007年に『電波改善ご要望フォーム』に発展させ、地図上で場所を入力できるようにしたり、基地局の完成見込みが立った方には『何カ月後に改善予定です』と個別に回答したり。基地局の設置が難しい方には、代わりにホームアンテナをご提案する。そうした一人一人へのフィードバックの仕組みも、この頃に立ち上げました」

プラチナバンドへの切り替えの日のネットワークセンター

ソフトバンク株式会社 2013年度 通期決算発表より抜粋

3Gから4Gへ、広がるネットワークの土台

3GからLTE(4G)へ移行し、iPhone も「iPhone 5」からLTEに対応。端末が扱うデータ量が増える中、ネットワーク側にも、増え続けるトラフィックをどうさばくかという新たな課題が生まれました。

この時期、ネットワークを支える周波数帯は、企業の統合と国の割り当ての両方によって広がっていきます。イーアクセスとの統合で1.7GHz帯が加わり、ウィルコムの統合等では グループ会社として 2.5GHz帯を活用できるようになりました。あわせて、総務省から割り当てを受けたプラチナバンド(900MHz帯)も、LTEに使われるようになります。さらに、イーアクセスやウィルコムが持っていた基地局などのネットワーク資産も、統合によって活かせるようになりました。

イーアクセスとウィルコムは2014年に合併して「ワイモバイル株式会社」となり、現在まで続く「ソフトバンク」と「ワイモバイル」のダブルブランド体制へとつながっていきます。

ダブルブランドを掲げるショップ

iPhoneのLTE対応や、イーアクセス、ウィルコムとの統合によって、ネットワークづくりはどのように変わりましたか?

柴田 「3GとLTEでは通信方式が異なり、一度に扱える情報量がまったく違います。LTEに対応している端末がどれくらい普及しているか、LTEのエリアがどこまで広がっているかを見ながら、複数の周波数にトラフィックをどう振り分けるか、無線設計のチームは夜な夜な議論していました。使える周波数や基地局が増えたことで、取れる打ち手も増えていきました。イーアクセスとの統合では、ソフトバンクの基地局サイトとイーアクセスの基地局サイトを組み合わせることで、ソフトバンク単独では電波の弱かったエリアを補完できるようになりました。ウィルコムのPHS基地局も、電波改善や2.5GHz帯の展開に活用していきました」

野中 「ネットワーク資産だけでなく、人材が一つのチームになったことも大きかったと思います。私は九州でイーアクセスとの統合を経験しましたが、最初はお互い距離があった。それでも『一緒にネットワークを作るんだ』という空気の中で組織が一体化していく過程で、大きな相乗効果が生まれました。ボーダフォンから来た我々も、最初はソフトバンクの『イケイケゴーゴー』な社風に戸惑いましたが、気付けば自分たちもその一員になっていた。イーアクセスやウィルコムの皆さんも、きっと同じ道を辿ったのだと思います」

20年間、「つながる」ことに向き合って

最後に、20年間「つなぐ」という仕事にどのような姿勢で向き合ってこられたか、一言ずつお願いします。

野中 「 携帯電話は、つながらなければ意味がありません。どこでもつながるのが当たり前になった今からは想像しにくいですが、当時は使えない場所がいくらでもありました。企画の立場でも、九州で現場の責任者をしていた時も、営業や協力会社、地域の方々の『ここが使えない』という声に耳を傾け続けること。それが20年間、変わらず大事にしてきたことです」

柴田 「お客さまに快適に使っていただけるかどうか、その一点に尽きると思います」

仙波 「もし今、つながらないことで困っている方がいたとしたら、その責任をどう自分ごととして受け止めるか。『困っている人が、今この瞬間もどこかにいる』という思いを持ち続けることが、私にとっての向き合い方でした」

谷崎: 「2001年に入社した頃は、広い場所や大きな駅の前でないと使えないのが当たり前でした。それが今では、屋内の奥まった場所でもつながるのが当然と思われるまでになった。これは、孫さんのこだわりを現場が引き継ぎながら、地道に積み上げてきたエリアづくりの成果だと感じます。

一つのことにこだわり抜くと、ここまで来られるものなんだな、というのが率直な実感です。後に私は米国スプリントのエリア改善にも携わりましたが、そこに持ち込んだのは、日本で培った技術やノウハウはもちろんですが、むしろ『ソフトバンクの魂』だったと思っています。孫さんの考え方、そしてソフトバンクになって変わった我々の『つながる』ことへの向き合い方そのものを、アメリカに持っていった感覚です。通信はライフラインでもありますから、そこまでこだわり抜いたことが、何より大きかったのではないかと思います」

あの日、電波をつないだ1台の車。東日本大震災と衛星移動基地局車「エリシオン」

2011年3月11日に発生した東日本大震災では、東北地方沿岸部を中心に、多くの基地局が停波し、通信インフラは壊滅的な被害を受けました。ソフトバンク(当時はソフトバンクモバイル)では、臨時基地局の設置をはじめとしたさまざまな方法で、被災地における移動体通信の確保に努めました。その方法のひとつが、衛星移動基地局を搭載した車両の活用でした。いち早く、衛星移動基地局車で被災地に入り、避難所を中心に電波の発信や携帯電話の貸し出しを行ったチームの中心メンバーであった田近明彦にこの経験を振り返ってもらいました。

田近明彦(たぢか・あきひこ)

ソフトバンク株式会社 プロダクトR&D本部 次世代NTN開発部 担当部長

システムインテグレーターでSEとして勤務した後、Jフォン東日本(後のボーダフォン)へ入社。2004年8月、ソフトバンクの携帯電話事業参入に加わるためソフトバンクBBへ転職。2009年頃、衛星回線を使った小型基地局の帯域共有技術を考案。衛星移動基地局車「エリシオン号」を試作し、2011年の東日本大震災では自ら運転して被災地入りした。離島の通信インフラ整備、衛星伝送路の高速化などを手掛け、現在も衛星通信分野に携わる。

その日、間に合った車

震災前、田近らは衛星回線とフェムトセルベースのIP基地局を組み合わせた衛星移動基地局車を、当時の技術統括・宮川潤一専務から指示され、試作車の製作を進めていました。愛称は「エリシオン号」。この車のお披露目会を1週間後に予定していた、まさにその矢先に、東日本大震災は発生しました。

2011年3月11日、地震発生時はどこにいましたか?

田近 「汐留本社で仕事をしていました。テレビで津波の襲来を知って、多くの基地局が被害を受けたに違いないと思い、同僚たちと『あと1週間早く、衛星移動基地局車が完成していたらよかったのに』と話していたんです。そこへモバイル・ネットワーク本部から内線があり、『エリシオン号はいつから使えるのか』と。車両を製作していただいていたベンダーさんに電話しても繋がらないので、メールを送ったところ、すぐに返信が来て『先ほどナンバーが取れました!』と。『すぐに汐留に持ってきて!』そこから、全てが動き出しました。

ベンダーさんも、車検のため陸運局に向かう途中で大きな揺れだったねと話していたそうですが、陸運局ではテレビに津波の様子が生中継されていて、職員の方々が映像に釘付けになっていたそうです。そんな中ナンバー交付の手続きでは特殊な改造車のため、通常であればナンバー発行に手間取る手続きだったのですが、その場に居合わせた責任者らしき方が『これは今まさに必要な車ではないか。すぐにナンバーを発行してあげなさい』と、その場で判断してくれたそうです。

あと1週間早く、と話していたその日に、車が仕上がった。偶然と言えば偶然なんですが、今振り返ると、何かに導かれていたような気もしますね。当時本社があった汐留ビルの正面玄関の前で深夜にみんなで基地局を調整して、明け方に浜離宮のところに行って通信試験をしたら衛星も通信できて。これはいけるってことで、『行くぞ!』って、東北に行っちゃいましたね。行く先々で、たくさんの方々に助けられながら、東北を目指しました」

石巻専修大学で最初の電波が通った瞬間

ご自身が開発した車が、まさにその日に間に合って現地に向かった。その時のお気持ちは?

田近 「13日の深夜、約700人が避難されていた宮城県・石巻専修大学に到着しました。深夜に避難所に突入するのは迷惑だろうと思い、まずは大学の裏手で電波を出してみたんです。すると、衛星の通信トラフィックがぐっと上がったんですね。おそらくサーバーに留まっていたメールが一斉に受信されて、『ソフトバンクの携帯が使えるようになった!』と気付いてくださった方が、たくさんいたのだと思います。あの瞬間は、今でも強く印象に残っています」

石巻専修大学でエリシオンを運用

印象に残っている避難所での出来事はありますか?

田近 「貸し出し用の携帯電話を、皆さん順番に並んで使ってくださいました。ある外国人の女性職員の方は、避難者のサポートに追われて自分のことは後回しになっていたのですが、国際電話を勧めたところ、電話の向こうのご主人と連絡が取れて、もう大声で泣きながら話をされていました。また、仙台空港勤務のお父さんの安否が分からず、津波の映像を見て『仙台空港が津波で流されるのをテレビで見た。お父さんは亡くなったと思う』と諦めかけていた母娘が、貸し出した電話でいきなりお父さんと連絡が取れ、抱き合って泣いておられたこともありました。

秋田の実家の親と連絡が取れ、明日迎えにきてもらうことになったと喜ぶ学生さん、親戚と連絡が取れ、今から出発するからとわざわざお礼を言いに来られたご家族。妹夫婦が津波で亡くなった、中国に帰りたいと涙ぐむお母さんと小さなお子さん、本当にたくさんの方々に電話を使っていただきました。

電話を使った方の多くは、返してくれるときに何か一言、話をされるんですね。人は悲しみに直面したとき、話し相手が必要なんだと、あの時実感しました。

貸出電話をしながらふと、あぁ、自分はこの日のために生きてきたのか、と思いましたね。

我々と並行して、モバイルネットワーク本部さんの方でも開発されていた衛星伝送路搭載の大型のトラックタイプのエルフ基地局車も順次東北に投入され、各地でエリア復旧が加速していきました」

プラチナバンドがなかったから。工夫して編み出した「帯域共有」という発明

エリシオンが被災地で電波を届ける一方、ソフトバンクでは衛星回線を使った小型基地局を各地の避難所などに展開。衛星をフェムトセルと組み合わせ、避難所の臨時基地局として使うものでした。最終的に、展開された衛星伝送路の数は350局以上に上りました。震災の現場でこれほどの規模で活用できた背景には、田近たちが2009年頃から取り組んでいた技術開発がありました。

当時のソフトバンクは、電波が遠くまで届きやすい「プラチナバンド」と呼ばれる周波数帯を持っておらず、特に山間部や離島などの「ルーラル地域」へのエリア展開に苦労していました。そこでルーラルでも使用できる衛星伝送路の活用を検討していました。しかし、衛星回線は非常に高価な上、使える通信容量にも限りがあります。基地局ごとに帯域を固定的に割り当てると、通話がない間も帯域を占有してしまい、コストに見合いません。一方、通話が始まってから必要な帯域を割り当てると数秒かかり、音声が途切れてしまうという課題がありました。

そこで田近たちが考案したのが、通話が始まった時点で「次の通話」に必要な帯域を先回りして確保する仕組みです。通話がないときは帯域を使わず、必要になったときだけ次の通話分まで確保する。これにより通話品質を保ちながら、限られた衛星帯域を多くの基地局で効率よく共有できるようになりました。この技術は特許登録されています(特許第5724048号、公報発行日:2015年5月27日、共同発明者:宮川潤一・島崎良仁ほか)。

衛星を使った臨時基地局は、大活躍でしたね。

田近 「帯域共有方式の衛星伝送路利用の発案当初は、『衛星伝送路はそんな使い方はできない、できていたらとっくに誰かがやっている』と、かなり反対されました。案の定、最初は上手くいかなかったんですけれど、それでも、理屈の上ではできるはずだと試行錯誤を続けて、半年ぐらいかけて、なんとか実現方法を編み出しました。2010年頃からその衛星伝送路を使用したルーラルのエリア展開を始めていましたが、そのための衛星通信機材を数千式単位で倉庫に在庫していました。偶然にもこれが震災で活用されることになりました。

衛星帯域も十分に持っていました。前年に衛星帯域を買い付ける際、当時の宮川CTOが『これは良いものだからできるだけ買っておこう』と言われて、とてもじゃないけど使いきれないと思われる量の衛星帯域を購入していました。しかし3.11以降、結局この帯域は全部使い切りましたね。

当時のソフトバンクは、電波の飛びが良い『プラチナバンド』と呼ばれる周波数帯を持っていませんでした。震災直後、衛星伝送路を使った小型基地局をこれほど大量に展開できたのは、裏を返せば、この弱みを技術で補おうとしてきた蓄積があったからだともいえます。

震災の後、総務省の会合で当時の技術部門の役員が、他の通信事業者や自治体などの方々から『ソフトバンクさん、あれだけの数の衛星伝送路基地局で避難所をカバーしたのは素晴らしかったですね』と声をかけられていました。それを見た時、本当に誇らしくて、眩しい気持ちになりました」

衛星回線とIP携帯電話基地局の機器を組み合わせた臨時基地局設置の様子

被災地臨時基地局プロジェクトには多くのグループ社員が動員されました

東日本大震災から15年。この経験をどう次の世代に伝えたいと考えていますか?

田近 「あの時、ソフトバンクは決して震災に負けていなかった。社員一人一人が一生懸命頑張って、サービスを継続できるように、一人でも多くの方に電話を届けられるように、東北の社員と工事業者の皆さんが停波した基地局の復旧をされるのと並行して、本社の技術メンバーが小型基地局を避難所に展開して、技術以外の部門でも毎日夜間の基地局用の電池交換をした社員もいたし、被災者の方々に電話の貸し出しをしたチームもあった。数百人規模の社員が、東北で被災された方々に電話を届けた。そうやって頑張ってきた皆さんが、この会社のご先祖様のような存在だと私は思っています。

あの時のことを覚えていてほしい。そして、自分もその中の一員なんだという意識を持って、いつか災害が起きた時には、『自分も行かなきゃ』と思ってくれる人が増えてくれたら、それが一番嬉しいことですね」

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東日本大災害・通信障害を経て ── 進化し続ける「有事の対応」

NTTやKDDIが国策会社を源流とする通信事業者であるのに対し、ソフトバンクは異なる道を歩んできました。インターネット接続サービス「Yahoo! BB」から出発し、日本テレコム、ボーダフォン日本法人の買収などを通じて通信事業を拡大。2011年の東日本大震災当時は、通信事業もソフトバンクモバイル(移動体通信)、ソフトバンクテレコム(固定通信)、ソフトバンクBB(ブロードバンド)という別々の会社に分かれていました。技術部門もそれぞれ異なる体制で運用され、有事の際に情報を一元的に集約する仕組みは、まだ整っていませんでした。また、災害対策基本法上の「指定公共機関」でもありませんでした。

東日本大震災で直面した、こうした課題にどう向き合い、有事の対応をどう変えてきたのか。震災当時、ネットワークの運用現場にいた2人のエンジニアに、通信を届け続けるという使命を組織としてどう支える体制を築いてきたのか、その歩みを聞きました。

杉本篤史(すぎもと・あつし)

ネットワーク運用本部 運用企画統括部 災害対策室 室長

2001年、日本テレコム入社。震災当時は固定通信のNOC(ネットワークオペレーションセンター)に所属。

坂元圭太(さかもと・けいた)

ネットワーク運用本部 コア運用統括部 統括部長

1999年、東京デジタルホン入社。震災当時は東京ネットワークセンターでモバイルの交換設備の保守運用を担当。

見えづらかった全体像

2011年3月11日、東日本大震災発生時、坂元はモバイルコア設備(全体の通信をコントロールする中枢設備)の保全を、杉本は固定通信系のNOCを担当していましたが、いずれも非番の日でした。当時、二人がそれぞれ振り返るのは、「何が起きているか、情報が見えづらかった」という感覚です。現在のように在宅勤務の環境が整っていなかっただけでなく、買収を重ねて拡大してきたソフトバンクという会社の成り立ちそのものに起因する、構造的な課題もありました。

発災当時は、どこにいましたか?

坂元 「非番明けで、自宅で寝ていました。大きな揺れで目が覚めて、家のものがガラガラと落ちてくるほどでした。当時はまだ今の杉本が所属しているような「災害対策室」という組織がなく、事故復旧の指揮系統も、正直かなり手探りの状態だったと思います。私はコア設備の保守担当でしたが、コアは輻輳がすごくて、再起動も多数発生し、いろんなアラームがいたるところに出ていました。当時は自宅から設備の状況を把握できる環境もなく、電話もつながりにくい中、なんとかネットワークセンターにいる保守担当者と連絡を取って、何が起きているのか、どうするのか、かなり右往左往しながらやっていましたね。

今でこそコアもRAN(無線アクセスネットワーク)も伝送も一体となって復旧に当たる体制がありますが、当時はそれぞれの設備領域で復旧対応に当たっており、情報も錯綜していて、コア側で対応策を打っても、伝送側の準備が整っていないなど、一部対応がスムーズにいかなかったケースもありました」

杉本  「私は固定系のNOCで、モバイルの業務には直接関わっていませんでした。組織としても別々に動いていましたし、震災対応において、モバイル側と固定側、それぞれの情報がどこかで統合される仕組みも、当時はありませんでした」

当時、対外的な情報発信はどのようにしていましたか?

杉本 「モバイル側の情報と固定側の情報は、別々の窓口から発信されていました。今のように、一カ所に情報を集約し、そこから一元的に発信する、という体制ではありませんでした」

「災害対策室」の誕生

東日本大震災の混乱を経て、ソフトバンクは自らの体制そのものを見直していきました。また、ソフトバンクモバイル、ソフトバンクBB、ソフトバンクテレコム、ワイモバイルの4社は、2015年4月1日付でソフトバンクモバイルを存続会社として合併しました。

震災を機に、社内の体制はどう変わっていったのでしょうか?

杉本 「私が災害対策室に配属されたのは震災からしばらく経ってからなので、当時を直接経験したわけではないのですが、震災を契機に、まず技術部門に『災害対策室』という組織が新設されました。当初は固定側の保全部門に設置され、その後モバイル側にも同様の組織が作られるなど、段階を踏んで整備されていきました。同時に、災害対応のための移動基地局車などの機材を計画的に備えていくフェーズにも入っていきました」

震災当時ソフトバンクは、指定公共機関ではありませんでしたね。

杉本 「ソフトバンクモバイルとソフトバンクテレコムが、2013年10月、国の指定公共機関としての指定を受けました。震災前は、モバイル側と固定側でバラバラだった対外的な情報発信も、その後ネットワーク運用本部として一つにまとまり、災害対策室が総務省対応や情報発信を一元的に担う、今の体制に整理されていきました。異なる出自の組織が寄り合って生まれた会社だからこそ、『有事の際に一つの会社として動く』ための体制づくりを、震災後、意識的に積み上げてきたのだと言えます。

私自身が災害対応を担当するようになったのは、10年ほど前の平成28年熊本地震からです。東日本大震災当時はPDFの地図をウェブサイトに掲載して『ここがエリア支障です』と伝えるような告知の方法でしたが、平成28年熊本地震では、お客さまがウェブ上の日本地図を自由に拡大・縮小して、復旧状況を確認できる復旧エリアマップに変わるなど、情報提供の形も進化していきました」

今は有事の際、どのような体制になっているのでしょうか?

杉本 「設備障害が起きると、まず担当する設備ごとに事故対策本部が立ち上がり、各NOCの担当者がそれぞれ集結します。一方で、情報を集約する『情報班』の役割は、私たち災害対策室が所属する運用企画統括部が担っています。法人向け、コンシューマー向けのお客さま対応班とも連携しながら、必要な情報を広報や対応部署へ一元的に届けています。震災当時に比べれば、情報の管理は格段にスムーズになりました」

2018年、もう一つの教訓

東日本大震災後、ソフトバンクは数々の災害対応を重ねてきましたが、通信を脅かす「有事」は、自然災害だけではありません。2018年12月には、自社設備に起因する大規模な通信障害も経験しています。

2018年の通信障害について教えてください。

坂元 「あの時は、コアもRANも伝送もあらゆる装置から大量のアラームが発生し、最初は何が起きているのか分かりませんでした。最終的には、通信機器のソフトウエアに組み込まれていた証明書の期限切れが原因と判明し、ソフトウエアを一つ前のバージョンに戻すことで復旧に至りました。われわれの目に見えない、内部ロジックとして埋め込まれていた『時限爆弾』のようなもので、本当に予想もしないことでした。多くのお客さまに迷惑をかけてしまったこの経験から、機器を導入する前の検証段階で、内部の時計を意図的に先の日付に進めて動作確認を行う試験を新たに取り入れるようになりました。ベンダーの説明を鵜呑みにせず、自分たちの手で確かめる、という発想への転換にもなった出来事です」

「自社で復旧」から「事業者同士で支え合う」へ

日本国内で頻発する大規模災害を経て、有事対応は「自社だけで完結させる」ものから、「事業者間で助け合う」ものへと変化してきました。大規模災害の発生時に災害対応機材を他社と融通し合う「つなぐ×かえるプロジェクト」では、平時から合同で訓練を重ねる取り組みが行われています。また、2026年4月からは、非常時事業者間ローミング「JAPANローミング™」を開始しています。

JAPANローミング™は、現場にとってどのような変化でしたか?

杉本 「このサービスは、大規模災害や通信障害によって、自分が契約している携帯会社の回線が使えなくなった際に、他社の回線を一時的に借りて通信を確保する仕組みです。ローミングを発動する際には他社と連携してRANやコア設備の対応が必要になるため、正直、NOCの負担は増えました。ただ、実際に、JAPANローミング™が発動されたときのデータを確認すると、他社のエリアが使えない状況で、ソフトバンクの回線につながっていることがわかります。お客さま目線に立てば、救急車を呼べた、家族と連絡が取れた、ということであり、意味は大きいと感じています」

坂元 「頻度の多さには正直驚いていますが、数百、数千という規模のお客さまを実際に救うことができているのが分かっているので、使命感を持って取り組んでいます。ただ、それを手動でやり続けるのでは芸がないので、自動化して効率的に実行していくという流れを作りました。有事の際はしっかりやり遂げたいと思っています」

事業者間の相互扶助という発想は以前からあったのでしょうか?

杉本 「かつては各社がエリア復旧の速さを競い合う雰囲気がありましたが、令和6年能登半島地震の頃には、困った時に事業者間で相談し合える関係に変わってきていました。能登半島の先端への道路が寸断されていたときは、石川県庁でのリエゾンを通じた情報共有に加えて、各社の災害対策室同士が連絡を取り合いました。『そこへはどうやって行ったの?』『ここの道路が通れるようになったよ』『うちは復旧できたけど、そっちはどう?』と、現場のリアルな情報を共有し合える関係になった点が以前との違いです」

事業者は日頃から合同訓練を実施している

経験の伝承。「AIに魂を込める」

今後、現場の経験値は、どのように継承していくのでしょうか?

坂元 「昔はそうした経験を人づてに伝えていくのがセオリーだったと思うのですが、今はもうそういう時代ではありません。経験やナレッジ、ノウハウといったものも、ちゃんとAIに蓄積させながら、誰でも同じような判断ができるような流れに持っていかないといけないと思っていて、そういう『魂込め』ということを、今、進めているところです。

いくら良いマニュアルやドキュメントを作ったとしても、その時々の人のコンディションによって、対応の質は変わってしまいます。ある程度、自動化や自律化を進めていかないと、迅速な対応にはつながりませんし、過去の障害対応の経験が生かせないままになってしまう。そこで今は、自動化・高度化というところに舵を切って進めています」

杉本 「災害対応の力を支えているのは、NOCでは日々の監視業務と並行して行っている訓練の積み重ねです。新しい世代への技術の伝承も、そうした日々の訓練を通じて行っています」

20年間「つなぐ」という仕事に、どう向き合ってきましたか?

坂元 「私は運用畑が長いのですが、『お客さまに安定したサービスを提供し続けること』。それ以上でもそれ以下でもない、という信念でずっとやってきました。運用というと、24時間365日ネットワークを守り続ける大変な仕事、というイメージがあるかもしれません。でも今は、効率的に高い品質で運用できるよう、自動化・高度化を進めています。現場のメンバー自身がツールを内製することもその一つです。

自分たちの『かゆいところ』」が分かっているからこそ、そこに『手が届く』一番効率のいいものが作れる。『こんなの作ってみたいんですけど』『じゃ、作ればいいじゃん』と。自分たちで運用のあり方そのものを変えていける。そこも、この仕事の面白さであり、ソフトバンクらしいところだと思っています」

杉本 「被災地で通信が使えるようになった時、被災者の方から『ありがとう』というお声をいただくことがあります。自分の仕事の先には、家族と連絡を取りたい人、大事な連絡をしたい人がいる。そのことを意識することで、仕事への向き合い方も変わってくるのではないかと思います」

異なる会社が寄り集まって生まれたソフトバンクが、震災という危機を経て、一つの通信事業者として有事に向き合う体制を作り上げてきた20年。そこには派手さこそないものの、「つなぐ」という使命を、組織としてどう果たし続けるか。その問いに、地道に向き合い続けてきた歩みがありました。

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5GからNTNへ 。「つながる」の定義を、更新し続けて

スマートフォンの普及と4Gによって、「つながるか」だけでなく「どれだけ快適か」が問われるようになったモバイル通信。2020年には、その次の世代となる5Gの商用サービスが始まりました。一方で、5Gには周波数の制約や、新たな価値をどう生み出すかといった課題もありました。そして今、ソフトバンクのネットワークは、衛星やHAPS(成層圏通信プラットフォーム)によって、地上から空へと広がろうとしています。

ソフトバンクは5Gをどのように展開し、通信の価値をどう高めようとしてきたのか。5Gの構想段階からネットワークの展開まで携わり、現在は空からのネットワーク「NTN(Non-Terrestrial Network)」を担当する藤野矩之に、「なんちゃって5G」と言われた独自の戦略、通信品質を競う時代への転換、そしてこれからの「つながる」について聞きました。

藤野 矩之(ふじの・のりゆき)

ソフトバンク株式会社 プロダクトR&D本部 次世代NTN開発部 部長

2007年4月、ソフトバンクBBに入社。配属先は、商用ネットワークの開発・運用とは一線を画す「技術戦略室」で、無線ネットワークに関する技術評価などを担当。約8年間在籍したのち、実際にネットワークを企画・構築する「モバイルネットワーク本部」に異動し、約11年間、5Gのネットワーク戦略や展開に携わる。現在は、空からネットワークを届ける「NTN」を担当する部署に所属。

「つながる」から「速くつながる」へ

藤野が入社した2007年頃は、携帯電話のネットワークに求められるものが大きく変わり始めた時期でした。ソフトバンクが電波改善に力を注ぐ一方、翌2008年にはiPhoneを発売。スマートフォンの普及とともにデータ通信量が急増し、「つながるかどうか」だけでなく、通信の速さや快適さが求められるようになっていきます。

入社当時、どのような状況でしたか?

藤野 「ドコモやKDDIに比べてネットワークが悪いと言われ続けていた時代で、孫さんも『電波改善します』と、とにかく品質を上げろという号令をかけていました。そんな中、孫さんが持ち込んだのがiPhoneの独占販売です。これをきっかけにスマートフォンが普及し始め、それまでは『つながるかどうか』が指標だったのが、データ通信の速度がものすごく重要になっていきました。トラフィックも倍々ゲームで増えて、道路の幅は変わらないのに、走る車の数だけがどんどん増えていくようなイメージです。ネットワークを広げることと、増え続けるトラフィックに対応することの難易度が、一気に跳ね上がった時代だったと思います。

正直に言うと、新入社員だった当時は、その大変さがまだピンと来ていませんでした。後に商用ネットワークを担当するようになって、その難しさを実感することになりました」

5Gにつながったウィルコムの資産、そしてSub6という壁

5Gへの布石は、その前の世代から始まっていました。ソフトバンクがウィルコムを傘下に迎える際、藤野が所属する技術戦略室では、ウィルコムの統合等でグループ会社として 使えるようになった2.5GHz帯をLTEに活用できるか、小型基地局を数多く配置する独自のネットワーク資産が実用に耐えうるかなど、技術面から検証を行いました。そこで培われた技術は、その後の5Gにもつながっていきます。

5Gへの取り組みはどのように始まっていったのでしょうか。

藤野 「ちょうどLTEが成熟してきて、『次は5Gだよね』という話が出てきた頃です。実はウィルコムが持っていた2.5GHz帯は、TDD(時分割複信)という方式の周波数でした。それまで主流だったFDD(周波数分割複信)は、音声通信やエリアを広く取るのに向いた方式なのですが、TDDはむしろデータ通信に適した方式なんです。当時、『Massive MIMO』という大容量通信を可能にする装置を、世界に先駆けて商用ネットワークに導入しました。このTDDを成熟させるところから入り、その技術の延長線上に5Gがあったので、そういったノウハウを生かしながら検討が始まっていった、という時代でしたね」

ウィルコムから引き継いだ資産と、そこで培った技術が5Gへとつながる一方、5G用に割り当てられた『Sub6』と呼ばれる周波数帯には、エリアを広げていく上でさまざまな制約がありましたね。

藤野 「そうですね。5Gの主要な電波の一つとして割り当てられた『Sub6』は、衛星通信との干渉などを考慮する必要があり、エリアを広げていく上で扱いの難しい周波数帯でした。そのため、5G用に新たに割り当てられた周波数だけでネットワークを広げていくのは難しいと考えていました」

2019年4月10日、5Gの周波数の割り当て認定書交付式が総務省で行われました

「なんちゃって5G」と呼ばれて

5G用に割り当てられた周波数帯だけでは、十分なエリア展開が難しい。そこでソフトバンクが選んだのは、新しい周波数帯だけに頼るのではなく、それまでLTEで使っていた周波数帯も5Gへ転換し、ネットワーク全体で5Gへの移行を進める戦略でした。

既存のLTE用周波数帯を5Gに転用するには、制度面での対応も必要でした。当時はそうした5Gを「なんちゃって5G」と呼ぶ批判もありましたが、どのように進めていったのでしょうか。

藤野 「Sub6でのエリア展開がなかなか広げられない中、5G用の新しい周波数帯だけに頼らず、既存のLTE用周波数帯もできるだけ早く5Gに転換して、トータルでネットワークを仕上げていくという作戦を立てました。これは5G構想の初期段階から考えていたことです。実現するには、ネットワークだけを変えればいいわけではありません。制度にも対応しなければいけないし、端末も対応させなければいけない。総務省への説明や制度対応、メーカーとの調整などを、2019〜2020年頃に進めていきました。

当時は『なんちゃって5G』ではないかという批判もあり、反論を重ねながら進めてきました。それでも、4Gから5Gへスムーズに移行するために必要な方法だと考えていました。結果的にマイグレーションを進めることができているので、間違っていなかったと思っています」

他社とは異なる戦略を取ることに、社内ではどのような反応がありましたか。

藤野 「5G用に割り当てられた周波数帯を広げて使うのが、普通に考えればスタンダードです。でも、それでは難しい課題があるから、他社とは違う作戦を取って、勝ち筋を作っていこうという考えを出していきました。当時CTOだった宮川さんをはじめ、上層部まで持っていっても、説得力があればちゃんと話を聞いて判断してもらえる。現場から出てきた考えを聞いてもらえるというところは、ソフトバンクらしいと感じましたね」

5Gで、新たな価値をどう生み出すか

既存のLTE用周波数帯も生かしながら5Gへの移行を進める一方、ソフトバンクが重視してきたのが、5Gという表示や最高速度だけではなく、お客さまが実際に感じる通信品質でした。5Gだけに頼らず、場所や状況に応じてLTEも有効に使いながらネットワーク全体で品質を高め、ビッグデータを活用してお客さまの体感を数値化し、改善につなげる仕組みも構築していきました。一方、事業という面では、『5Gでどのような新しい価値を生み出すのか』という課題が残りました。

4Gがスマートフォンの普及とともに大きく成長したのに対し、5Gでは新たな価値をどう作るかが課題だったのですね。

藤野 「そうですね。スマートフォン以外の収益源がなかなか見つからない中で、5Gをどう事業につなげるかは、世界の通信事業者に共通する課題でもあります。私自身、5Gに向き合うようになってから、『売り物としてのネットワーク』ということを、それまで以上に強く意識するようになりました。それまでは技術的な視点で仕事をすることが多かったのですが、ネットワークをどう事業として成立させるのかという視点を持つようになった。5Gは、その意味でも大きなターニングポイントだったと思います。

そうした中、当時のCNO(最高ネットワーク責任者)だった関和さんが打ち出したのが、『通信品質そのものを商品にしていく』というコンセプトです。月間何GBというデータ容量の価値だけではなく、『品質』自体を価値にしていく。この軸が2、3年前から動き始めています。大きな転機の一つとなったのが、2023年にソフトバンクが実施した通信品質の説明会でした。

コロナ禍では人の移動が止まり、一時的にネットワークの混雑が緩和しました。その後、人流が戻ることを見据えてネットワークの整備を続けた結果、お客さまが実際に感じる通信品質にも成果が表れてきました。そこで、ビッグデータを使ってお客さまの体感を数値化したデータなどを説明会で公表したところ、大きな反響がありました。それまで最高速度が注目されることが多かった通信事業者間の競争でも、『通信品質』が一つの重要な軸になってきたと感じています」

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「通信品質そのものを価値にする」という考え方は、その後どのように発展していったのでしょうか。

藤野 「その一つの取り組みが、昨年度実施した『F1日本グランプリ』での実証実験です。エリクソンとも協力し、会場のさまざまな用途に応じて通信品質をコントロールするというショーケースを行いました。例えば、迫力ある映像を送るライブ中継用のテレビカメラには大容量・低遅延の通信を。一方で売店の決済端末には、速度よりも『絶対に途切れず、確実につながること』を割り当てる、といった具合です。求められる品質はサービスによってまったく違います。同じネットワークでも、用途ごとに最適な品質を提供できるかを試したわけです。実際、実証では決済が100%成功という結果が出て、手応えを感じました。

今後、SA(スタンドアローン)方式でこうした品質のコントロールをさらに柔軟に行えるようになる可能性も見えていて、その意味でも印象に残る取り組みでした」

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NTNへ。地上から空へ「つながる」を拡張する

5Gまでのモバイルネットワークでは、増え続けるトラフィックに対応する『通信容量』と、お客さまがいる場所に電波を届ける『エリア』の両方を広げてきました。そして今、衛星やHAPSなどを活用するNTNによって、『エリア』の考え方そのものが大きく変わろうとしています。ソフトバンクでは今年、日本における成層圏通信プラットフォーム『HAPS』の通信試験の成功や、衛星とスマホとの直接通信サービス『SoftBank Starlink Direct』の開始など、『空からつなぐ』ための取り組みが大きな節目を迎えています。現在、その研究開発に携わる藤野は、NTNによって『つながる』の定義が再び変わっていくと話します。

藤野 「これまでの『つながる』は、基本的に人がいる場所が対象でした。しかし今は、海の上でも山の中でもつながることが、当たり前になりつつあります。この先5年、10年で、『つながる』の定義そのものが、また変わっていくのではないかと思っています」

具体的には、どのような研究開発を進めているのでしょうか。

藤野 「大きく三つの軸があります。一つは、光を使ってHAPSや衛星、地上との間でデータ通信を行う『光無線通信』技術。もう一つは、バッテリー・ソーラー技術です。地上と違い電力の確保が難しい上空では非常に重要となる領域です。そして三つ目は、また別の切り口から『空からのつながり』を模索している、災害時に応急エリアカバレッジを目指すDRU(Disaster Relief Unit)というプロジェクトです。

衛星は一気に広いエリアをカバーできますが、キャパシティ(通信容量)はそれほど大きくない。一方でHAPSのような手段は、より大容量の通信に向いている。それぞれの特性に応じて、いろいろな「武器」をそろえていく段階だと考えています。地上の基地局をベースにしながら、衛星やHAPSなどをどう組み合わせ、ネットワーク全体として使っていくか。利用する周波数帯も含めて、それぞれを連携させていくことが重要になります」

この20年、「つなぐ」という仕事にどう向き合い、これから何を目指していきたいと考えていますか。

藤野 「この20年は、スマートフォンをベースにネットワークが大きく進化した20年だったと思います。トラフィックは年々倍々ゲームで増え続け、単なるインターネット接続だけでなく、決済など、生活になくてはならないツールへと進化してきました。それに伴って、ネットワークが担う責任も大きく変化してきたと感じています。

その中で、『つながる』という定義自体も変わってきています。電波という有限な資源を使って、何をどう提供すればお客さまに満足していただけるネットワークになるのか。それを考え続けた20年だったと思います。

現在はNTNの仕事をしていて、地上とは少し違う『つながる』の領域にいますが、お客さまの満足のためという軸は何も変わりません。今後、AIの浸透に伴って、ネットワークの役割もまた変わっていくと思います。一方で、災害時などにライフラインとして果たす役割もますます重要になっています。ネットワークの重要度はこれからも高くなり続けるはずです。お客さまに満足していただけるネットワークを、これからもしっかり届け続けていきたいと思います」

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(掲載日:2026年10月1日)
文:ソフトバンクニュース編集部