バーチャルリアリティ(VR)用ヘッドセットとコントローラを装着し、同じバーチャル空間の中で話し合う白衣の人々。ここは病院の会議室で、この後に予定している外科手術に向けた術前VRカンファレンスが行われているのです。
VRカンファレンスの模様
この最先端の医療技術を開発し、ビジネスとして普及させているのは、医療イノベーターの杉本真樹医師。遠隔ホログラム診療、オンラインロボット手術、モバイル医療など先端医療テクノロジーを活用する杉本医師に、医療の未来はどうなるのか、また来るべき5G(第5世代移動通信システム)時代に向けて「医療×5G」の可能性を語っていただきました。
杉本真樹さんのプロフィール
医師・医学博士、帝京大学沖永総合研究所 特任教授、Holoeyes株式会社 共同創業者・取締役 COO。帝京大学医学部卒。国立病院機構東京医療センター外科、米国カリフォルニア州退役軍人局パロアルト病院客員フェロー、神戸大学大学院医学研究科消化器内科 特務准教授、国際医療福祉大学大学院准教授を経て現職。外科医として臨床現場にて医用画像解析や手術支援システム、3Dプリンターによる生体質感臓器造形やVR仮想現実などの医工学横断的な研究開発や科学教育・若手人材育成を精力的に行う。2010年に、ソフトバンクグループ代表取締役会長 兼 社長の孫 正義とITと医療をテーマに対談したことも(後に書籍化)。
VR技術で医療の現場が格段に変化する
実際のVRカンファレンス(VR手術の前の打ち合わせ)を拝見して、その不思議な光景に驚きました。このようなことを行っている病院は増えているのでしょうか。
杉本:患者の医療画像をVR化して、本人の診療に利用している施設は徐々に増えています。例えば、当社(Holoeyes)が開発・販売しているWebサービスは、実際の患者のCTスキャンやMRIの情報から作成した3DのポリゴンデータをVRなどのアプリに約10分で自動的に変換することが可能で、このアプリを導入している施設は国内でおよそ60から70施設、海外でも徐々に広まって10施設ほどで使われています。
今は「薬機法(医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律:旧薬事法)」に基づく医療機器、正確には医療画像処理ソフトウェアとしての認可が下りるのを待っている段階です。この承認が得られると医療保険の点数が付く可能性があり、医療機関での導入に弾みがつくと期待しています。
症例の検討だけでなく、手術でもVRを用いられているのでしょうか?
杉本:本番の手術では、VRの立体映像と現実空間が同時に透けて見える複合現実(MR)対応のゴーグルを利用します。患者本人の臓器をスキャンしたデータから生成したMRの立体映像を術部に重ね合わせたり、空中に浮かせて表示したりして、計画通りの手術を再現する補助にしているのです。
VRで手術現場などの、医療情報を可視化する最大のメリットはどういうところでしょう?
杉本:レントゲン画像や平面のディスプレー画像では、臓器を立体的に把握するには頭の中でイメージするしかありません。VR空間で再現すれば、自由に動き回りながら観察できるので、骨格や内臓、血管の位置が直感的に把握できます。裏側をのぞき込めば反対側も手に取るように分かります。
本来、人間の身体は立体なのですから、平面に圧縮して見ていたこれまでが不自然なのであって、VRによって空間的に理解できる方が自然だと言えるでしょう。
杉本:また、VRの利点としては「他の人の視点を共有できる」ことが挙げられます。これまでベテラン医師のメス捌きなど、細かい手の動きは医師の間で“暗黙知”のように伝えられてきました。「匠の技は背中を見て覚えろ」の世界ですね。しかし、これでは教える人の体が邪魔で、手元がよく見えません。
一方、VR空間を共有すれば教える人の体が透けて見えるので、自由な視点で手の動きを見られるわけですね。
そして技術を教わる側だけでなくて、教える側にとっても楽なんです。自分の動きを「右に30度から何センチ前に...」と説明しなくても、手や視点の動きをそのまま伝えることができるため、相手も直感的に把握できるわけです。医学生にも100円ショップで購入可能なVRゴーグルを付けてもらって、ベテラン医師と同じ目線で体験してもらっています。
頭だけではなく身体で覚えられるのは学習効果も高いですね。
杉本:少し抽象的な話となりますが、これはデジタルとアナログの違いにも関係しています。デジタルというのは、本来は連続的なアナログの世界をバラバラに分ける(digit)という意味です。繊細な手の動きはアナログですが、これをデジタルの手法を使いながらもアナログの連続性も伝えられるようになったのがVRなのです。
そして、この情報を途切れさせないために欠かせない技術の1つが「5G」だと考えています。
5Gの普及によって医療情報は、より多く、より早く共有できる
5Gのお話が出ましたが、これによって医療はどのように変化していくのでしょうか?
杉本:例を挙げると「VRオンライン診療」が身近になるでしょう。現在、タブレットやテレビモニターを介して医師が診察する遠隔医療が始まっていますが、モニター越しの診療で得られる情報には限界があります。
例えば、こんな話があります。90歳を超えた男性の自宅に遠隔診療の仕組みが実験的に導入され、テレビモニター越しに医師が話しかけましたが、男性はそれに何も答えませんでした。実はモニターに映る医師の映像をテレビ番組だと思っていたようなのです。
しかし、HoloLens(マイクロソフト製の半透過で見える複合現実ゴーグル)を装着して医師の姿をホログラムのように見せたところ、自分の症状について話し始めました。VRやMR(複合現実)であれば、実際の医者が目の前に現れるので男性も普段と同じように対話ができたというわけです。
もちろんリアリティのあるホログラム映像を転送するには多くの情報量が必要です。5Gの普及が進めば、これがどのご家庭でも利用できますし、地方や離島といった遠隔地でも都会と同じレベルの対話ができるようになるでしょう。
VRオンライン診療以外にはどのようなことがありますか?
杉本:モバイル医療も大きく変わっていくと考えられます。私は今、帝京大学の救命救急センターで文部科学省の科研費による救命救急士と伝達について研究を行っています。
具体的には、救命救急士に360°撮影できるカメラを装着して現場に赴いてもらい、映像や超音波画像などで救命救急センターや他の施設とオンラインで共有する研究。または、搬入後にCT撮影したデータをすぐにホログラフィーに変換し、患者の体に重ねて表示して、外傷の部位や初期治療の手順を複数の医師や看護師、救急救命士などに共有する研究。そういった教育に活用する可能性を探っています。
これらが可能になると、救急車で移動している間も刻々と変化する患者の状態がリアルタイムで送られてくるので、センターに到着するまでに適切な医療体制を整えられるのです。救命救急にはこの時間を超えるかが生死を決定すると言われる「ゴールデンタイム」というものがありますが、情報伝達の高速化・効率化はこれを大きく改善する可能性があると考えられます。
5Gの普及で日本は「医療輸出大国」になれる
時間や距離を縮められることで、医療の「質」自体が高まる可能性があるのですね。
杉本:現在、日本の医療が抱えている問題に、医師のリソース不足があります。超高齢化社会を迎えて患者数は増える一方で、医師や医療従事者の人数も時間もスキルも足りなくなっていきます。さらに都市部と地方の医療格差の問題も無視できません。医師の持つ能力を効率的に配分して有効活用していくためには、情報を瞬時に共有していくことが必要なので、5Gへの期待は大きいです。
そして世界に目を向ければ、すでにインドや中国、イスラエルなどでも5G通信を利用した遠隔手術や遠隔ロボット技術の実証実験が始まっています。
遠隔ロボット手術に高速な通信が必要な理由はなんでしょうか?
杉本:現在のところ、ロボットアームには触感がないので、それを立体視で補うための3Dカメラがロボットに装着されています。そのため、データ容量がとても多くなるわけです。また、人命にかかわる遠隔手術では映像やロボットアームの動きの情報などの遅延も大きな問題となります。これらの問題を解決するには、大容量・超高速・低遅延といった特長を持つ5Gが不可欠なのです。
今後、世界中に5Gネットワークが広がって国境を超えたロボット遠隔手術が実現できれば、日本の高度な医療技術を海外に「輸出」することだって不可能ではありません。日本だけでなく世界の医療の質向上に貢献できる可能性すら見えてきたのです。
「5G×医療」が描く“医者の要らない社会”の未来像
VRや5G、ロボットと最先端医療など、非常に刺激的なお話をお伺いできました。杉本先生が思い描く医療の未来についてお聞かせいただけますか?
杉本:私自身は「医者が要らない社会」が理想と考えています。例えば、病院に行って診察待ちをして医師の問診を受けなくても、自宅の音声アシスタントに尋ねるだけでAIが簡単な診断をしてくれるような未来です。
また、医療の知識や技術がもっと一般社会に広がれば、病院や医師に頼らずとも、健康な人が自分で病気を未然に防いだり治療できるようになるのではないでしょうか。
現在は法的・倫理的な問題から実現は難しいかもしれませんが、CTやMRIによる画像診断がコンビニや薬局などで気軽に利用できる時代が到来するかもしれません。
5Gが普及した世界では、医師の経験や勘に頼ることなく、誰でも絶えずオンラインで無料に近い価格で自分の治療に必要な医療情報にアクセスできるはずです。ソフトバンクも、ヘルスケア事業などにさらに力を入れてくれると医者がいない社会の実現に近づくのではないでしょうか。
それはおよそ何年後に実現できそうでしょうか?
それは私にもわかりません(笑)。例えば、iPhoneを日本でソフトバンクが販売し始めてから10年ほど経ちましたが、それ以前に誰が現在の社会を想像できたでしょうか。10年後の世界は誰も予想できなかったと思いますし、その間隔はどんどん短くなっていて、今では5年後の世界も予想は難しいですよね。
ただ、はっきりしていることは、「バーチャル」と「リアル」の境目が無くなっていくという流れです。これからはリアルであるかどうかという枠組みにこだわるよりも、そこにどのような意味や価値があるかという「アクチュアリティー(現実性)」こそが重要になっていきます。5Gによって、オンラインとオフラインがよりシームレスにつながるようになることで、その流れは加速していきそうです。
(掲載日:2019年10月11日)
文:栗原亮
撮影:中村宗徳